シン・コロナの世界を生きる
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この記事は新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)について僕個人が今までに考えたことを書きまとめたものです(雑談です)。本感染症に対する治療、予防、検査をはじめとする医学的見地や政治的判断の是非については言及いたしません。
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僕がSARS-CoV-2の中国湖北省武漢市における流行を知ったのは、今年の1月9日でした。日本で速報が流れたのその日かと思います。春節を控えていましたし、ああこれはすぐに日本にも来るなと、直感的に理解しました。
それからもうすぐ3ヵ月が経とうとしていて、今の日本や世界の状況は、当時の僕なんかの予想を大きく上回って悲惨です。これを書いている途中にも、新たに感染者が判明したとの速報が流れてきています。SARS-CoV-2を巡っては、毎日ニュース番組(やTwitter)で激論が交わされています。世論的には「もう飽きた(「疲れた」という意味合い)」といった感じもします。
夏目漱石の名著『こころ』の最後、「先生」の遺書に「明治の精神に殉死する」という一節があります。このフレーズの解釈は、それだけで難しいのですが、「先生」が生き抜いた明治という時代に思いを馳せながら自死する、といった感じです。「精神」は、俗っぽいですが時代感っていう感じでしょうか。
SARS-CoV-2は「令和の精神」の一部になってしまいました。換言すれば、本件は令和を生きる人類の精神・哲学・生き方に必ず影響を与えています。令和を生きるならば、人類がSARS-CoV-2という脅威と目を逸らさず向き合い考え続けることは大切なことでしょう。外出自粛でもありますし、今日は今までに考えたことをまとめる日にしたいと思います。
シン・コロナから考える①:人間が集まる意味
結論「集まることが必要な時もきっとあるけれど、不要な集会も多そうなので、そういうの無くしてもいいんじゃないですか」
そろそろSARS-CoV-2って書くの面倒なので、『シン・ゴジラ』よろしく「シン・コロナ」とします。『シン・ゴジラ』をご覧になられたことのない方は、この外出自粛の間に是非ご覧ください。現状と相まってとても面白く感じると思います。
ゴジラとコロナの違いはたくさんありますが、人々の生活を脅かすといった観点では共通しています。ゴジラが実害をもたらしたのは空間的には東京を中心とする関東だけでしたが、コロナは全世界に広がりましたし、目に見えない点はゴジラよりも厄介かもしれません。
『シン・ゴジラ』では首相をはじめとする政府上層部が被災(死亡)し混乱を極めました。シン・コロナも同様、例えば国会議員の誰か一人でも感染すれば、国会を介して瞬く間に拡大し、政府が機能しなくなる恐れがあります。高齢の議員さんも多いですし、特に安倍首相は潰瘍性大腸炎を患っておられますので、免疫抑制剤を飲まれていますでしょうから心配です。
政府が外出やイベント、集会の自粛を要請する一方で、国会という集会が行われていることには一瞬違和感を感じます。そもそも議論や意思決定の場において、現地に人間が集合することの意味って何なんでしょうか?
一定数の企業でテレワーク(在宅勤務)を試験導入しているようですが、課題となるのは報連相の不足と、その背景にある対面・紙面を介したやりとりの習慣のようです。原因が習慣や形式的なところであるならば(業務上立会いが必要、技術や倫理面で課題があるなどではないのであれば)、いや頑張れよって思います。5G導入とも重なりますし、いい機会なんではないでしょうか。
僕たちの研究チームでは普段の報連相をメールか電話で済ませることが多いのですが、特に困ったことはありません。もちろん職種によってここの感覚は異なるとは思います。ちなみに国会の場合は集合人数の規模が大きいので、集まる方がいいんですかね(法規定もあるのでしょうか?)。情報漏洩等については、ローカルネットワークでやれば問題ありませんし、中継しているくらいなのでオープンアクセスでも問題ないのではないでしょうか。
なお個人の範囲ですが、様々な会合が中止となって何か困ったかと言うと、別に何もって感じです。
送別会や歓迎会が中止になったのは少し残念ですが、そもそも本人たちが望んでいるかもわからないので無くてもいいのかなとも思います。多分ああいうイベントって形骸化しているか、主催側が飲みたいだけかかな。
学会や勉強会はどうでしょうか。正直以前から、わざわざお金と時間をかけて赴く意味は少ないかなと思っていました。公演はネット配信で、閲覧のために参加費を払うみたいな形で実現できればみんなハッピーではないでしょうか。テレビのチャンネル回す感覚で発表を見られる。きっと質問もしやすいですね。まあただこの場合は、施設で一人だけ参加費払えば画面越しに誰でも見れてしまうといった点が課題にはなります。ポスターや一般演題も大変そうですね。情報漏洩の問題もあるんですかね。
ちなみに、音楽ライブや芸術鑑賞などは例外かなと思います。あれらは現場の雰囲気、臨場感も合わさって完成する作品ですよね。
シン・コロナから考える②:感染症との共存
結論「シン・コロナ以外にも身の回りに感染症はいっぱいある。風化させずに予防続けてくれると嬉しい。」
さて、『シン・ゴジラ』の最後で、長谷川博己さん演じる矢口議員は「日本、いや人類はもはや、ゴジラと共存していくしかない」と口にします。つい先日、落合陽一先生も「(今後を生きる考え方を)"After Corona"から"With Corona"へ」といったようなフレーズを用いられました。
「制御できない外的脅威は確かに存在し、排除できない場合は共存せざるを得ない」という考え方は、人間が支配できることの増えた今でも大事だと思います。
人類と感染症との闘いの歴史は非常に長いです。紀元前のミイラにも天然痘の痕跡がみられるくらいです。医学薬学の発展、具体的には抗菌薬やワクチンの開発、公衆衛生の向上によって徐々に感染症の脅威は(表面上)小さく感じられるようになってきましたが、それも高々100年程度の話です。有名なフレミング先生がペニシリンを発見されたのが1928年らしいです。
数ある感染症の中で、根絶が宣言されたのは天然痘(1980年)だけで、それ以外の感染症とはすでに共存しているのが現状です。シン・コロナ以外にも、様々な細菌やウイルスがいつも傍にいます。
そうした観点においては、予防(手洗い・うがい・マスク・ワクチン)や治療は共存のためのツールとも言えます(もちろん最終的に根絶できれば人類的にはいいのかもしれませんが)。特にワクチンは、集団免疫の獲得という点で非常に大事ですし、人類が幾万の犠牲の上に掴み取った叡智の結晶です。すでにワクチンの存在する季節性インフルエンザ、麻疹、風疹、子宮頸がん(HPV)などのワクチンを打たれない方が一定数おられることは、残念に思います。彼らなりの哲学があることは知っていますが、ここではそれには触れません。
なお、今年のインフルエンザ罹患者数は過去10年間で最少とのことです。シン・コロナへの予防がこちらにも効いているようです。
シン・コロナがいつ沈静化するかはわかりませんが、いつかきっと風化してしまう。予防が功を奏していることは目に見えて明らかなので、この意識を続けることが共存には大事なんじゃないかな。まあ、目の前に脅威がないと頑張れないことは想像に難くないですがね。
シン・コロナから考える③:無知の知とリテラシー
結論「何もしない勇気、知らないと言える正しさ、自力で考える誠実さ」
シン・コロナをめぐっては、情報の錯綜、デマの流布などが問題になりました。マスクだけでなく、ティッシュ類や一部食品までもが品薄状態になりました。
同様の現象は過去にもありました。オイルショックの時、物資不足が噂されたことにより日本各地でトイレットペーパーの買い占め騒動が発生しました。これが1973年ですから、当時20~30歳だった方は今60~70歳代でご存命です。それにも関わらず、同様の騒動が繰り返されてしまいました。人類の理性はこの半世紀で進歩していないようです。
この一因については、青島周一先生の記事がわかりやすいと思います。動物的な生存のために、直感に従った迅速な意思決定を行うヒューリスティックスという考え方です。
しかし本能的にそうであっても、それを理性で制御できるのが人類のはずです。ドラマ『3年A組』では、菅田将暉さん演じる柊一颯先生が情報拡散前の心構えとして「ぐっ、くるっ、ぱっ」を紹介してくれていました。RTボタンを押す前に「1回踏み止まって〈ぐっ〉、 頭の中を1回転させて考えたら〈くるっ〉、パッて答え(正しいこと)がわかる〈ぱっ〉」という意味です。「SNS 医療のカタチ ON LINE」で紹介された、"Trust but Verify"(信ぜよ、されど確認せよ)という言葉も同様の大事なキーワードです。
しかし実際には、本件をめぐっては医学的、統計的、法律的…色々な知識が必要ですので、何が間違っているかを判断することは困難です。
まずは、理解しようとしてみる。情報を川に例えると、下流では不純物が多い。出来るだけ上流の、信頼できる情報源にアクセスし正しく解釈する努力は個人レベルで必要です。他人の話だけで知った気になる恐ろしさを自覚することが大事です。
なお、理解すべきは「結論」だけではなく、重要なのは「結論に至ったプロセス」です。「検査はしません。」という結論をタコ殴りにするのではなく、その理由(例:検査せずとも十分に陽性が疑われるから)を確認する姿勢がどうも足りていないような気がします。
これは僕の邪推でもあるんですが、一見おかしな結論の裏に予想だにしない意思決定が働いているケースもあるかと思います。医療者でも政治家でも、その界隈で働く専門家が素人に指摘されるような点でのミスを(意図的に)おかすとは考えにくいんですよね。和牛引換券の裏にどんな意思決定があるかは知りませんが「あるかもしれない」と思うことは大事です。Let's eat beef!
そう言えば、わかりにくいカタカナ語はやめろという指摘もありましたね。
言いたいことはわかりますし、周知するには大事なことです。ただ、本来言葉はイメージで理解するものなので(中学校で英語習い始めた時に Think in English ってしこたま言われませんでした?)、個人的にはわざわざ日本語に置き換えなくてもなーと思います(カタカナにする必要もない)。落合陽一先生も脱日本語の重要性を指摘しています。
1つだけ持って返って欲しいことがある。我々が思考言語に使ってる日本語はほぼ近代語です。どういう意味か。フランス人権宣言以降の近代社会は「人間の人間による人間のための社会」であり、それをつくるためにつくられた言葉を、たとえば福沢諭吉とかがすごく頑張って日本の言葉にしていった。だから我々は日本語で考えてる時点でコンピュータの世界に行けないわけで、頭のなかでは他の言語体系で考えたほうがいい。(中略)頭のなかでそれら(英語・中国語・ラテン語)を日本語と組み合わせながらモノを考えてます。日本語で考えるのをマジで止めたほうがいいんですね。脱日本語。
さて、理解できなかった場合、理解に不安が残る場合、素直に「知らない」「わからない」と言えることも重要なスキルです。古代ギリシアの哲学者、ソクラテスの言葉を借りると「無知の知」です。
この「無」という状態が、どうも人類は苦手なのかもしれません。意図的に何もしない、何も言わないことの力(無の力、power of nothing)は確かにあります。僕は緩和医療(特にターミナルケア)の観点から、このスキルの重要性を知りました。
リテラシーの観点からもう1点。理論と感情論とは切り離されるべきです。最近のメディアは感情に訴えかけるような煽動的な報道が多いような気がします。目の前のステイトメントが事実か主張かを判断するスキルも重要ですね。
シン・コロナから考える④:不合理から合理へと架け橋を結ぶ
結論「頭でっかちは嫌われるだけ。相手の内側から駆り立てさせるスキル(動機付け)が重要」
人間の不合理性については前項で確認しました。シン・コロナの発生を知った1月当初、翌月には国内からマスクやティッシュが消えることなんて想像もできませんでした。マスクについては見通しが甘いと言えます。
こうした不合理な行動に対して、科学的・医学的正しさを振りかざして合理の道へ正そうとする方がTwitter上で散見されました。しかし、実際には効果的でないように感じました。トイレットペーパーが品薄になった際を例にすると、イオンの対応が模範解答のように思えます。
「買わせない理由を外から与える(説得)」のではなく「買わなくていい理由を内から生じさせる(自覚)」この戦略には感動しました。こうした、不合理から合理へと導くスキルこそ、臨床で医療者に求められるスキルだと感じました。少なくとも僕にはないスキルです。何かアドバイスあればぜひお願いしたいです。
人間の不合理性について探求する学問もあるようです。「行動経済学」という分野ですが、これからの時代、教養として必修レベルなんじゃないかと思います。
前項でも少し触れたように、医療を行うには医学だけでなく法規定や心理学などの知識が重要です。まだまだ学ぶべきことは多いなと分らされました。とりあえず、人間(患者も医療者も)不合理な時があると意識しながら業務に当たります。
なんか他にも色々考えたような気もしますが、とりあえずこのあたりで筆をおきます。思い出したらその都度追記しようかな。
僕は博士課程も薬剤師もやっと1年経っただけで、感染症どころか何の専門家でもありません。以上の内容は、そんな今の僕が考えたことの記録です。この騒動が落ち着いた頃に見返してみたいですね。その時まで元気でいましょう。