O-721

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自己満足を形にします。大学院生だったり薬剤師だったり。

「『there』のないカリフォルニア」 ー コバルト色の天空は、「文脈」にはならない。

珍しく過ごしやすい気候の日々が続きます。理想的な秋の日和です。

先日、彼女と他愛もない話をしていました。彼女は「今は過ごしやすけれど、冬になって寒くなるのが嫌だ」と言いました。じゃあ夏は?と聞くと、「暑いのも嫌だ」と言いました。挙句には「春と秋も花粉症で嫌だ」と言い始めました。これはもう日本に生まれたことを後悔するしかないですね。

四季というのは、改めて言うまでもなく、日本の魅力のひとつです。京都に移って8年、とりわけ秋になると涌いて出る観光客はもはや風物詩であり、如何に秋の京都から脱するかばかりを考えます。

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今日は四季にまつわる、とあるエッセイを紹介します。

1999年センター試験(追試)の国語、評論文で取り上げられた「『there』のないカリフォルニア」です。下のリンクから、問題箇所をDLできます。

note.com

ちなみに問題はめちゃくちゃ簡単な方だと思います。まあ選択肢が用意されているからであって、これ記述式だったら結構難しいと思うんですよね(というか、エッセイを評論文として出題しているのがそもそも悪問)。

話が脇道に逸れましたね。ざっくりアウトラインを紹介すると

  • 著者は日本文学の研究者で、これまでアメリ東海岸プリンストン大学にいた。
  • カリフォルニアのスタンフォード大学に移籍したが、そこでは四季を感じなかった。
  • 当初は四季がないことを快適に感じていたが、特に日本文学を講じる中で、徐々に違和感(虚無感)を覚えていく。

といった感じです。実際にはそれを足がかりに色々考えたことを書かれているんですけどね。

細く見ていきましょう。

【3,4段落】

 コバルト色の空は、一週間いても変わらない。一か月いても同じである。一つの「季節」に相当する時間が経っても、空はぼくが来た日からほとんど何の変化もみせない。

 そのカリフォルニアの空に対して、最初はとても快いおどろきを覚えた。空は開放的だった。スタンフォードの空を最初に見上げたとき、はじめて村上春樹の文章を読んだときのように、単純で明快なグッド・フィーリングを覚えた。

【6,7段落】

 季節の変化を束縛として感じる人はおそらく、ここで一つのパラダイスを見つけて、その中で自然の一つの条件から自らを解放してしまったような気持ちになるだろう、と思った。東海岸の豊かな季節の変化を苦痛と感じる人は、変化のないところに「パラダイス」を見つけるだろうと、思った。

 カリフォルニアの空は、その下を歩く人々を「束縛」しない。コバルト色の天空は、「文脈」にはならない。季節という「前後関係」を暗示しない。過去も未来もなく、永遠なる「今日」の空。(後略)

僕はカリフォルニアどころかアメリカに行ったことないんですが、コバルトブルーの空というのは見てみたいですね。

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こんな感じらしい

著者であるリービ英雄さん(すごい名前)は、四季(季節)=時間=変化と捉えています。時間が流れる中で否が応でも生じる変化や、それによって制限される行動や心情。四季のないカリフォルニアは、こういったものから逃れられる、心地よい場所なのです。

一方で、「最初は」とか「単純で」とか、「してしまったような」とか、なんか引っかかりを覚えさせる書き方をしています。

というのも、8段落を読めばわかりますが、この気持ちは1週間程度しか続かなかったようです。大学で、日本古典文学の授業が始まったことがきっかけです。

【11段落】

 ところが、カリフォルニアに来ると、(中略)、和歌を教えはじめた時点から、窓に映る、きのうも今日も明日も同じコバルト色の空がひどく気になってか、ぼくはつまずいてしまった。『古今集』になるとコッケイな気持ちになって、『枕草子』まで来ると、まわりの現実とテキストとのズレによって、心の中は一種のパニック状態になった。

日本文学というのは確かに、移り変わりゆくことの美しさを描いたものが多いかもしれません。『枕草子』なんて、思いっきり四季の話してますもんね。

枕草子】第一章

春はあけぼの。 やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

夏は夜。 月の頃はさらなり、闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。 雨など降るも、をかし。

秋は夕暮れ。 夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、烏の、寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。 まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。

冬はつとめて。 雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。 霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。 昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。

 他の例ではこんなのもありますね。

  • 平家物語』:祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
  • 方丈記』:ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

こんなことを「変化のない場所」で説明されても、聞いてる側もわからないし、教えている側も混乱してきそうですよね。

【14段落】

 春はあけぼの? いいえ、毎日はあけぼの、年中はあけぼの。俺たちにとっては、季節の区別なんて、歴史の領域なんだ。 

ハイライトしたところは、試験で問題箇所にも指定されている部分です。カリフォルニアという場所が、季節に苛まれた東海岸から祖先が逃げた先であるということがこれまでの記述から分かります。なので、カリフォルニアで生まれ育った人には、季節なんてものは歴史の教科書に載るようなものと同じなんですね。僕たちも自身が経験していないことは、戦争でもバブルでも、分かりませんものね。

【17-19段落】

 (前略)「カルチャー・ショック」より深刻な、一つの虚無感を覚えてしまった。

 どこでもいいから、四季のある「ノーマル」な国に戻りたくなったのである。

 When you get there, there's no there there.

 カリフォルニアで育ち、カリフォルニアのみならず「アメリカ」そのものから逃げるようにして、パリに移り住んだガートルード・スタインの、久しぶりにカリフォルニアに帰ったときの名言を、どう和訳すればいいのだろうか。「そこに着くと、そこにはそこがない」と直訳しても通じないから、「そこに着いても、そこには『そこにいる』、あるいは『どこかにいる』という感覚はまったくない」というふうに説明するしかない。 

【21段落】

 there には there がない、そこには「そこだ」という実感がない。カリフォルニアに一か月もいればスタインの名言の内容はよく分かるのだ。毎日変わらないコバルト色の、「春の」空でも「秋の」空でもない天空が、「ここ」の空でも、「そこ」の空でもない。「there」がないという地理的な虚無感も、「then」を言わせない時間の浮遊と切っても切れない関係にあるようだ。カリフォルニアは、「いつ」と「どこ」を意識の周辺に追いやった、実に不思議な「パラダイス」なのである。

僕がこの文章を初めて読んだのは多分大学受験勉強に明け暮れてた高2か高3の頃ですが、四季がないというのがこれほどまで(四季を知っている)人の精神を蝕むものかと驚いたことを覚えています。 

21段落に、リービ英雄さんの言いたいことが詰まっています。自然(場所や時間)から与えられる「束縛」を感じられない環境が、果たして「パラダイス」楽園と言えるのか、ということですね。

Anxiety Is Dizzieness of Freedom.

Soren Kierkegaard

「不安は自由のめまいである」、哲学者キルケゴールの有名な言葉です。あまりに束縛のないカリフォルニアで、リービ英雄さんもめまいに苦しんだのかもしれません。

最後に、問題文の最後となる段落を紹介します。

【23段落】

 清少納言の「季節批評」はやはり「there」だらけの狭い島国の密度の産物であることを、かえってカリフォルニアで再確認することもできた。が、そんなカリフォルニアにいて、ぼくはだんだん、「批評」そのものが恋しくなってきたのである。カリフォルニアの人は、声が明るいのにニューヨークのようにジョークは通じない。皮肉は耳に入ってこない。清少納言が記録したような細やかな判断を誰も下そうとしないし、誰も受け止めようとしない。ぼくが体験したカリフォルニアは「批評」のない世界だった。(後略)

ここの解釈はここまでに比べるとムズイと思います。センターだから問題にされていませんが、某京都の大学とかだったらここらへん訊いてくるんじゃないでしょうか。知らんけど。

というのも、突然「批評」の話に変わってるんですよね。清少納言の「季節批評」というのはつまるところ『枕草子』なんですが、「季節がない=批評がない」とは、なかなか繋がらないんですよね。ニューヨークでうけるジョークがカリフォルニアでは通じないとか知らんがな案件ですし。

僕なりの答えですが、「批評=批判、ではない」というのがミソですね。「批評」を別の言葉で置き換えるなら、「鑑賞」とか「評価」とかじゃないでしょうか。

微細な変化も感じさせない環境で、そういった機微に対する感受性が麻痺しているんじゃないでしょうか。皮肉やジョーク(特にブラックな)というのは、言葉に隠れた裏の意図まで汲み取ってこそ面白いものですよね。でもそういうものへの感受性がないから、伝わらないし面白くない。

四季という、避けがたい外因的な変化に否が応でも晒される、だからこそ培われた感受性や文化がある。そしてそれを、著者であるリービ英雄さんはとても大切なものだと感じているし、カリフォルニアでの生活を通じて改めて認識できたんですね。

 

 

彼女との何気ない会話をきっかけに思い出したこの文章ですが、10年弱ぶりに今改めて読んでも面白かったですね。「こんな日が続いて欲しいな〜」なんて思ってしまうくらい、落ち着いた穏やかな気候の今だからこそ、読めてよかったエッセイでした。